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喜捨の心。見返りを求めず。請け判はするな。金を貸すなら、やれ。渡すときは、腰低く。ご先祖様の戒め。

母方のご先祖様は、江戸時代、商売をやっていたよう。
曾祖父の代で、物を売る商売から、サービス業になったのですが、
金に関して、ずっと、代々、言い伝えられてきた戒めがありました。

それは、
「請け判はするな。金を貸すならやれ。渡すときは、腰低く」
です。

請け判とは、今でいうと、保証人になること。

連帯保証人になると、金を借りた者が払えなくなると、
それにかわって、借金を背負い込むことになります。
保険が発達していなかった昔、、請け判をしたばっかりに、
家が没落し、一家離散などの目にあった例が、
たくさん、あったようです。

請け判は、家を滅ぼす大きな原因となると
考えたんでしょうね。

「金を貸すならやれ」というのは、
誰かが、金を借りにきた場合の戒めです。

金は貸してはいけない。
もし貸してやるつもりがあるなら、
その何分の一かでも、やってしまえというものです。

例えば、誰かが100万円、借金の申し込みにきたとします。
そしたら、100万円を貸すのではなく、帰ってこなくても、
大丈夫な額、やってしまってもいい額を、与えよというのです。
100万円貸すよりも、10分の一の10万円になっても、与えたほうがいいと。

もちろん100万円が必要なところ、10万しか手元にこなければ、
借りにきたほうは、困るかも知れないけれど、
後で返す金より、返さなくていい金の受け取りを拒む者はいないと。

さらに金を与えるときに、気をつけねばならぬ事がありました。
それが最後の「渡す時は腰低く」です。

「喜捨」という言葉があります。

大辞林には、次のように書かれています。

《功徳を積むため,あるいは宗教的な戒律にしたがって,
金銭や物品を寺社や困っている人に差し出すこと》。

そこでは、「功徳を積むため」と書かれていますが、
本来、「喜捨」は、金や物を与えても、それに何の見返りも求めない
という場合を言うのだそう。

金は人を助けるものであり、必要なものではあるが、
一方で、人を狂わせるものでもある。
その使い方、動かし方が人生を決める。
そして実は、金は稼ぐより、使う方が難しいのだと。

借りに来る方は、精神的にもへりくだってきている。
だが、そこにつけこんだり、かさにかかって、
これみよがしに、やるから、もっていけという態度をとれば、
相手は、もらって嬉しいというより、馬鹿にしやがってとか、
人を見下してとかいう気持ちになる。
ひどいときには、金を渡して、恨まれることになる。

だから、与える場合でも、どうぞ使って下さい
という気持ちを込めて、腰を低くして渡せと。

貸すのではなく、与える。
与えても、なんの見返りも求めない。
むしろ与えるときにこそ、器量があらわれる。
だから、金を渡すのは、修行くらいに思った方がいいとも。

確かに、食事、酒をおごってもらう時でも、
おごり上手な人と、おごり下手というか、
おごってもらったのに、ちっともうれしくなく、
かえって、嫌いになってしまう人がいますね。

これまでの人生で、借金を申し込まれたことはありませんが、
(友達に、「明日まで1000円貸して」くらいはあるけれど)
もし、そうした場面になったとき、ご先祖様の上の戒めを、
ちゃんと、守ることができるでしょうか?

ずばっと、相手に、
「希望の額より少なくて、申し訳ないけれど、
返さなくていいから、これを持って行って」
と言えるでしょうか?

そんな己の姿が想像できない、
まだまだ修行が足りない自分でした。

というか、そもそも、「あいつに金を貸してもらおう」
と思われていないという時点で、ダメですけどね。

漫画家。西原理恵子さんの本音の一冊。

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