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「愚かな愚かなわたしです。それさえしらぬわたしです」。

先日、久しぶりに赤坂に行きました。

時間があると少し遠回りしてでも訪れるのは、
三分坂下にある報土寺という、浄土真宗のお寺です。

こちらは、三分坂沿いの築地塀(練塀)が有名で、
坂に沿って造られているため、塀が弓なりに
なっている珍しいものだそう。

そして、お寺には、
江戸時代の伝説的な力士・
雷電為右衛門の墓があることで知られています。

この寺の門前に掲示板があり、
毎日、ひとつの言葉が掲げられています。

それを見るというのが、足をのばす理由です。

訪れた日に掲示されていたのは、
「愚かな愚かなわたしです。それさえしらぬわたしです。」
というものでした。

これを読んでしばらく、
立ち止まり、考えを巡らせました。

帰宅後、調べてみたらこれは、
念仏詩人ともいわれた木村無相さんの
《法語カレンダー『凡夫のつぶやき』》に
出ている言葉のようです。

仏教の世界で「愚か」というのは、
頭が悪い、知識がないということではなく、
仏教の教えを知らないことだそう。

「愚癡」もしくは「無明」。

仏教の教えを知り、知識を得て、わかった
と思っていても、本来の悟りではない。

なので、あるとき、自分は、
本来の仏の教えをなにも知らなかったことがわかる。

親鸞聖人は、越後流罪され、赦免後に、
自ら「愚禿親鸞(ぐとくしんらん)」と名のられています。

「禿」は「かぶろ」で幼い子どもの髪型。
転じて「未熟者」を指すよう。

親鸞聖人は、自ら愚かで未熟な「愚禿」と言い、
「非僧非俗」の立場で、民衆とともに、
仏の教えを求め続ける考えを示したようです。

「無知の知」というソクラテスの言葉があります。
真の知に至るには、自分の無知を自覚することから始まる。

わかったようでいる自分を、
本当にそうなのかと問い直すことが、
大切なのではないか。

報土寺にはられていた言葉を読んで、
そんなことを考えさせられました。

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念仏詩抄 続



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