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みなしご、極貧生活から、大チェーンの創業者に。

「カレーハウスCoCo壱番屋」。

皆さんの中にも、店を見かけたり、
一度は、店を訪れ、召し上がったりした方は多いと思います。

その創業者が宗次徳二(むねつぐ・とくじ)さん。
以前から、経済誌、新聞記事で、生い立ち、創業秘話、
経営哲学、若くして引退そして若手芸術家を支援する
「イエロー・エンジェル」と、クラシックホール「宗次ホール」建設
などについて、断片的に存じ上げていました。

おそらく、氏の10月14日の誕生日にあわせたと思われる
ロングインタビュー「時代を駆ける」が
毎日新聞に掲載されています。
宗次さんは、みなしご。
兵庫県尼崎市の児童養護施設で
3歳まで育ちました。

宗次福松、清子夫婦に引き取られ育ちます。
雑貨商と貸家業を営んでいた養父母でしたが、
養父が大の競輪好きで、全財産を失い
岡山県玉野市に引っ越し。

養母は魚の行商で生活費を得るものの、
養父はギャンブルに明け暮れ、
すべて車券になり消えてしまうという毎日。
そのため養母は家出してしまいます。

徳二少年は、昼、給食のない日は、
校舎の陰で空腹に耐えたといいます。

他人から見ればひどい父親ですが、
徳二少年は、父が大好きだったよう。
父のために、パチンコ店でシケモク
(一度吸って捨てられたタバコ)を
必死になって拾ったとか。

小学2年の時、家出した養母が
名古屋に住んでいたことがわかり、
再び親子三人で同居。

けれど、電気料金が払えないので、
夜はろうそくの下、リンゴ箱の上で
食事をするという生活です。
養父の競輪熱はおさまらず、家賃滞納で
追い出され引っ越しを繰り返した
と言います。

再び別居した養母は、屋台の飲み屋を経営。
少年は土曜日、学校が終わると母の手伝い。

《デパートの「丸栄」の近くでカレーライスを食べた。
思い返せば、初めての外食だったな。》

このカレーライスという料理が、後に、
少年に大きな成功をもたらすことになろうとは!

愛知県立小牧高校の入学手続きの際に、
戸籍謄本を手にして、自分の生い立ちを
初めて知ったそう。

少年は、それまでずっと
「基陽(もとはる)」と呼ばれていたのですが、
戸籍上の実の名は「徳二」。

競輪で負け続けた養父が、
息子の名前のせいだと決めつけ、
勝手に名前を変えたらしいと語っておられます。

また誕生日も、実際は、10月14日なのに
10月23日と聞かされていたそう。

さらには、この事実を知るまでにも、
ヒステリックになった母親から、
「お前は施設でもらってきたんだ」
との言葉を投げかけられていたそう。

いやー、ドラマでこんなストーリーを
作ったらやり過ぎ、余りに作りすぎていると、
脚本家は、書き直しを求められるかもしれません。

さらに貧乏時代の苦労は続きます。

中学時代は、毎年冬休みに1週間ほど泊まり込みで、
毎朝3時半に起きて、米屋で正月用のもちつきのアルバイト。

愛知県立小牧高校商業科入学後は、
名古屋から毎朝5時半の始発電車に乗り、
始業前に学校近くの同級生の父親が
営んでいた豆腐屋でアルバイト。

日曜、夏休みも働き、学費・小遣いを稼いだそうです。

高校1年の時に、養父が胃がんで2カ月の入院後、死亡。
死ぬ間際まで競輪の車券を買っていたとか。

宗次さんはお父さんのことをどう思っているのか?

《父には散々苦労させられて極貧の少年期を送ったけれど、
その体験が私の楽天的な性格や不屈の精神をつくったと思う。》

恨みごとの一つも普通の人は言うはずですが……。

残されたお母さんは、ある会社の社員寮の賄い婦として働き、
高校卒業まで徳二さんの面倒を見てくれたそう。

その母について語ります。
《余ったご飯やおかずを弁当箱に詰めて
持ち帰ってくれた。本当にありがたかった。》

こんな生活の中、徳二少年の楽しみ、
慰めは何だったのでしょうか?

家にはお母さんが勤め先の社員から譲り受けた白黒テレビ。
そして、徳二さんは級友から、テープレコーダーを
5000円にしてもらい、月賦で買います。

テレビで放送されたメンデルスゾーンの
バイオリン協奏曲を偶然録音。
その第1楽章が気に入って、
毎朝聴いてから登校したそう。

以後、クラシック音楽が宗次さんに、
生きる力を与えてくれるようになります。

これが、現在の若手芸術家支援の
NPO法人イエロー・エンジェル、
クラシック専門ホール宗次ホール建設・運営に
つながっているんですね。

高校卒業後、不動産会社に入社。
3年後、転職し、大和ハウス工業に。
名古屋支店で、後に妻となる直美さんと知り合います。
一目惚れ。2年、押しの一手で交際し、
昭和47年11月12日に結婚。

宗次さんは、妻・直美さんについて
次のように語ります。

《彼女がいなければ、天職となる飲食業と
出合うことはなかった。日本一の妻です。》

24歳の時に不動産仲介業で、
自宅一角を事務所として独立。

不動産業界は収入が安定しないからと、
日銭商売をと夫妻で決心。
1974年、名古屋市西区で喫茶店「バッカス」を
始めたのです。

名古屋と言えば、トースト、ゆで卵、
サラダなどがつくモーニングが有名。
けれど、宗次さんの喫茶店は
モーニングサービスは一切なし。
コーヒーにつきものの、ピーナツも
30円で販売したそう。

安売りはせず、その代わりに、
「お客様 笑顔で迎え 心で拍手」がモットーで、
それに全力を注入したところ大成功を収めたのです。

「新婚時代に作ってくれたカレーを
メニューにしよう」と妻に持ちかけ、
出前、そして店に出したところ、
家庭的な味が受け、これまた大反響を呼びます。

そしてついに、1978年愛知県西枇杷島町(現清須市)に、
ココイチ1号店を出店したのです。

調理担当は奥さん。
店長はなんと飲食産業の体験がない、
家電販売員だった顔なじみのお客さん。

なぜ?

《中途半端な技術や知識があるより、
誠実で情熱がある人のほうがいい》
というのが理由だそう。
その見込みは成功し、店は繁盛し、
《この人は役員まで務めた》とか。

そしてこの店で、辛さ、ご飯の量、トッピングが
選べるシステムを考案し、評判を呼びます。

ちなみに、カレーは《不思議と冷凍することで
更においしくなった》とか。
じゃがいもが入っていると難しいのではないか
と思いますが、今度、家庭で試してみようかな。

3号店出店後、ココイチに懸けようと決意し、
喫茶店2軒を売却し、1979年
愛知県尾西(びさい)市(現一宮市)に、
自宅兼4号店を出します。

けれど、その年の暮れ
70万円がないと年が越せない事態に。

奥さんが、信用金庫に
「ここを拠点に10店舗にしますから」と説得し、
100万円を融資してもらったそうです。

ここでも奥さんは素晴らしい活躍を見せます。
以前、ご夫妻がお店を視察して回る
テレビ番組を見ましたが、そこでフランチャイズで
店を出す際には、夫婦であること、
そしてその仲がどうかを確かめる
とおっしゃっていました。

独立開業では、
二人が互いに力を合わせることが
大切なんですね。

さて、70万円で年が越せるところ
100万円融資してもらいました。

あなただったら、そのお金をどうされますか?

自分だったら、もちろん70万円で支払いなどして、
きれいにして、残り30万円の一部を、自分の年越しの
お金にし、残りは今後の会社のためにとっておきますね。

さてご夫妻はどうしたか?

《残った30万円のうち10万円で正月を迎え、
あとは二つの社会福祉協議会に
10万円ずつ匿名で寄付しました》。

この精神が、CoCo壱番屋を
今のように大きくした理由でしょうね。

店は順調に増えていきます。
そして、1981年には、社員にのれん分けする
「ブルームシステム」という制度を導入したそう。

これも自分のためだけでなく、
社員のためを思ってのこと。

会社をうまく経営する秘密は、休みなく働くこと。
そしてお客さんに苦情の葉書を書いてもらい、
それを毎朝、読んで改善につなげること。
そうした現場主義の中に、明日の経営に向けた
ヒントがたくさんあったようです。

けれど、「らっきょうをタダに」といった要望には
一切、答えず。内容に右往左往せず、心の部分での
満足感を提供することを常に心がけ、
ライバルも気にせず、値下げを一度も行ないませんでした。

こうして、ココイチは、徳二さんが50歳の時、
創業20周年500店舗を達成します。

自分は会長になり、社長を妻の直美さんに譲ります。
2000年にはジャスダック市場に上場。

我が子のような会社。
いつまでも自分が……となるのが普通です。

ところが、宗次さんは、会長の座からも去り、
53歳であっさり引退してしまいます。

副社長だった人物には、以前より
「社長をやれると思ったら言ってきて」
と話しており、実際に想像しているより、
はやく言ってこられた時は、
一瞬戸惑ったものの、うれしさが
込み上げてきたとか。

引退後は、夫妻して取締役からも退任。
経営には一切口を挟んでおらず、
相談もしなくていい、と言っているとか。

出来る事ではありません。

ご夫妻には、プロゴルファーになられた
一人息子( 弘章さん)がいらっしゃいますが、
後継者にはしないことを決めていたそうです。

宗次さんの信念。
《経営とは、継続して栄える「継栄(けいえい)」だと思う》。

そして現在、力をいれていらっしゃるのは、
芸術やスポーツの分野で夢を追う若者や
起業家を支援するNPO法人イエロー・エンジェル。

ご夫妻が株式公開で得た資金を、
自分たちのためでなく、
社会のために使うことにしたのです。

夫婦10組を対象にした月1回の「継栄塾」開設。
FC岐阜に、遠征用大型バスを贈呈。
そして、これは大きくニュースでも伝えられましたが、
バイオリニストの五嶋龍さんへの
名器ストラディバリウスの貸与など。

うーん。素晴らしい人生ですね。

連載は、おそらくあと2回ほど続きます。
以下のリンクから、これまでの連載が
ご覧になれますので、
是非、読まれることをお勧めいたします。

2011年10月12日、毎日新聞。
《時代を駆ける:宗次徳二/6 経営は「継栄」、53歳引退》
http://mainichi.jp/select/opinion/kakeru/news/20111012ddm012070089000c.html

毎朝、ゴミを拾いながらの
ウォーキングの話は出てくるのかなー。

宗次ホール
http://www.munetsuguhall.com/
宗次徳二さんの公式ブログ
http://www.munetsugu.jp/
《宗次 徳二のコラム「宗次流 独断と偏見の経営哲学」》
http://www.koushinococoro.com/magazine/business/munetsugu_keiei/

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nikitoki

CoCo壱番屋は、ハウス食品傘下に入ることとなりました。宗次さんと奥さんのお二人が所有している壱番屋の株はおよそ23%、390万株。それをすべてハウス食品に売却するとのこと。売却額はおよそ220億円。このお金は、基金として財団をつくり、ボランティア活動に充てることになる。基金として財団をつくり、ボランティア活動に使うとのこと。私財で作り、運営している名古屋の宗次ホール。宗次さんは、毎朝6時から1時間半ほどかけて、周辺の道路の掃除や花の手入れをつづけていらっしゃるようです。
by nikitoki (2015-11-18 22:39) 

nikitoki

この記事にアクセスが集中しています。
もしかしてこの記事が原因?
《ココイチが急速に“マンガ喫茶化”しているワケ》
http://www.itmedia.co.jp/business/articles/1609/14/news016.html

by nikitoki (2016-09-14 18:37) 

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