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キムタクが信長に扮した「ぎふ信長祭り」に46万人。岐阜市在住の親戚が冷淡な訳。

2022年11月6日の日曜日、
岐阜市で行われた「ぎふ信長まつり」。

キムタクが信長に扮し、パレードが
市内の目抜き通りで行われ、およそ
46万人もの見物客があったそう。

この観覧のためのチケット、さらに
トークショウには、これまでにないほどの
応募があったようです。

岐阜市内にずっと住んでいる伯母さん、
従兄弟など親戚は、この騒ぎをどう思っていたのか。

向こうからメッセージが届いていました。

伯母さん、従兄弟。
さらにはその他の若い親戚たちも、
ほとんど関心を持っていませんでした。

なぜなら、このお祭り、信長は、
JR岐阜駅の北側での出来事だから。

どういうことかというと、
岐阜駅の北側にある金華山の上には、
岐阜城がたっていて、かつて信長が
治めていました。

信長はご存じのように、岐阜から安土に移り、
天下統一間近で明智光秀に殺されてしまいました。

岐阜という名前は、信長の出身地、尾張にある「政秀寺」を開山した
沢彦宗恩(たくげんそうおん)が「岐山・岐陽・岐阜」の
3つの地名を提案。その中から信長自身が選んだとされています。

「岐山(きざん)」は周が都を置き、殷を滅亡に追い込んだ
縁起のいい地名にちなんだもの。ちなみに「岐山」は
西安近くに実在する山です。

岐阜の岐は、「分かれる」。阜は、丘という意味。

信長は、斎藤道三の息子、斎藤龍興を破り、
城下の「井之口」との地名を「岐阜」と改称したのでした。
ちなみに、斎藤道三が築いた稲葉山城も「岐阜城」に。

けれど、信長が岐阜にいたのは、わずか3年足らず。

今回、お祭りでは、「信長公騎馬武者行列」が行われましたが、
岐阜の地でこうした馬揃え(軍事パレード)は行っていません。
安土に移ってから。

秀吉のあと、家康が天下を取り、江戸幕府をたてます。

江戸時代、岐阜は加納藩が治めます。
初代は徳川家康の女婿奥平信昌。
以後、断絶などがあり、藩主の血筋は変わります。
(幕末は永井氏)
しかし徳川親藩なのですね。

加納城は、岐阜城を解体した木材で、
JR岐阜駅の南側に建てられました。
そこを拠点に治めていたのです。

母方のご先祖様は、その加納藩の下級武士だったそう。

幕末、加納藩は幕府側ですので、お殿様は維新軍から
逃れるため、加納藩を抜け出し、京都に向かったそうですが、
そのお供の一人だったのが、足軽だったご先祖様だったとか。

という訳で、信長とは全く別の
加納藩なので、織田信長に関する
お祭りには関心がないのでした。

岐阜市が織田信長のイベントに
力をいれるのは、観光目的のため。
わずか3年弱しかいなかった織田信長を
使うのは、まあしょうがないですね。

〇親戚は、同じ岐阜市内でも
 JR岐阜駅より北側を別の地域と認識している。
 もちろん生活圏として通学したり、
 買物に行ったりはするが。
 
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