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柳生博さん、亡くなる。実家の里山。13歳での一人旅の家訓。秒の仕事から世代の仕事へ。

柳生博さんが、
亡くなられました。
85歳でした。

生前、「動物のようになくなりたい」とおっしゃっていて、
病院にはいかず、ご自宅で最期を迎えられたようです。

テレビドラマ、クイズ番組で
よく存じ上げていたのですけれど、
日本野鳥の会の会長をされていた頃、
お話を伺ったことがあります。

その前に八ヶ岳にもお邪魔したことがあると
お伝えしたら、「ありがとう」と礼を言われ、
「森は日々成長しているから、
またいらっしゃい、そのときには、
ウッドデッキ(テラス)で一緒に
コーヒーでも飲みましょう」
と誘っていただきました。

お話していただいたのは、故郷である茨城県の
稲敷郡舟島村(現在の阿見町)のご実家、里山、
そこでの野良仕事の話、柳生家の家訓の
「13歳での一人旅」で、夏の1ヶ月、八ヶ岳を
訪れたときの話、そして、40歳の時に土地を購入し
木を植え続けた八ヶ岳での生活についてでした。

柳生博さんは、茨城県、霞ヶ浦のほとり、
現在の阿見町のご出身。
ご実家は、農地と里山の山林を持つ地主で、
小さい頃から、祖父、父親などから、
野良仕事をするように言われ、
農作業、山の仕事をされていたそう。

「あなたは、なんで野良仕事って言うと思いますか」
と問われ、答えられなくてドギマギしていると、
「野良仕事って、文字通り野が良くなる仕事だから、
野良仕事なんだよね」と笑顔で教えてくれました。

確かにそうだなーと納得。

柳生家の家訓は、「13歳になったら一人旅をしろ」。

13歳は、昔でいう元服で、
一人前として扱われる年齢なんだそう。
さすが武芸の柳生家ならではの家訓ですね。

その一人旅の場所として選んだのが八ヶ岳。
日本全国の地図を眺め、等高線がぐるぐる
している(?)場所を選んだだそう。
(和歌山にもあったが、遠すぎてあきらめたらしい)

まだ蒸気機関車の頃で、最後、八ヶ岳に登るために
乗った小海線は、高度が高く、勾配がきついので、
スイッチバックで、折り返しながら、運行していたそう。
けれど、時には途中で登れなくなることも。
そんなときには、降りて、みんなで押したこともあったそう。
(本当かなと思うエピソードですけれど、1950年頃ですね)

野宿をしていたら、地元の農家の人が、
食べ物をくれたり、風呂に入れてくれたりしたとのこと。
そのお返しに農作業を手伝ったとも。

まだ13歳なのに、働きぶりがすごいので、
農家、地元の人が驚いたと、
またまた笑顔で教えてくれました。

そして、小さい頃からのご自身の習慣というか、
癖らしいのですが、自分のフィーリングにあった木を、
「僕の木」と決めるのだそう。

「僕の木」は、心の支え。
見たり、触ったりすると、
落ち着き、また勇気をくれるのだとか。
八ヶ岳南麓でも「僕の木」を決めたといいます。

こうして13歳の1ヶ月の一人旅を終え一人前の男に。

柳生さんは、「海の男」になりたいと、
東京商船大学に進学されるものの、
目が悪くなり、わずか1ヶ月(1年?)ほどで
船長の道はあきらめ、退学。
そこから両親、家族に反対されながらも、
役者の道に進んだとのことです。
(調べたら、二年で中退されていますね。
その後、しばらくして俳優座養成所に入ったら、
父親から勘当されたとのこと)

八ヶ岳に土地を買い、木を植え、
森を作ったのは、亡くなられた
ご長男・真吾さんが、柳生さんの演じた
役柄のせいで、学校でいじめられたのが原因。

自分の小さいときのように、自然の中で、
親子一緒に暮らしたいと考えたのだそう。

思いついた場所は、13歳のときに旅して、
「僕の木」がある八ヶ岳だったとのことです。

その八ヶ岳での森作りの話もとても興味深いのですけれど、
語っていただいた中で、強く印象に残っているのが、
「俳優、司会として、自分は秒単位の仕事をしてきたけれど、
八ヶ岳に移って、自然を相手にするようになり、年単位、
さらには世代単位で生きられるようになった」との言葉。

森は、年輪が刻まれますが、年単位。
大きくなるのは10年単位、
それらの木が集まり、森を形成するのは、
最低、30年、一世代かかります。

秒から世代が単位の世界になったことで、
より人生が充実したと満足されたご様子でした。


八ヶ岳の野鳥に逢いにきました。


自然を生きる、自分を生きる


◯小さい頃から対人恐怖症で、なにかあると
 言葉が出ず(吃音)、赤面。
 小学生の学芸会で芝居をするときは熱が出た。
 そんな自分が俳優を志した不思議。

◯茨城の出身で、茨城訛りが抜けず苦労。
 養成所に入ってから、ずっとNHKの
 アクセント辞典を持ち歩き、
 訛りを直そうと努力した。
 辞典はボロボロになったら買い替え。
 5冊ほどダメにした。
 15年くらいたって、ようやく訛りが抜けた。

◯デビュー前、そしてデビューしても役者だけでは、
 食っていけない。肉体労働で生活費を稼いだ。
 地下鉄の工事はきついが、賃金が良かったので、
 よくやった。
 「◯◯線(すいません、忘れてしまいました)は自分が作った」
 との冗談は、ご自身の定番となっていたみたいです。

◯柳生家の家訓
 タダ酒は飲むな
 借金するな
 偉そうな人はたいして偉くない
 何ごとも比較するな いわんや人間を
 粗食を旨とすべし

◯森林浴は、柳生さんが生み出した言葉と
 おっしゃっていました。
 (一般的には、1982年に林野庁長官の
 秋山智英氏によって生まれた造語とされる)

◯安産祈願 
 1981年からおよそ12年間、平日の午前中に
 放送されていた「100万円クイズハンター」。
 司会を努めていた柳生博さん。
 ある時、妊娠中の出演者がおなかをなでてほしいと依頼。
 柳生さんはそれに応えます。そこからさらに発展し、
 「柳生博さんと握手をすると子宝に恵まれる」と言われるように。
 出演者、付き添いの人など、収録の時には、
 柳生さんは、手がはれるほど握手したそう。
 このあと、タモリさんも、「笑っていいとも」で
 安産祈願なんてことをやってましたね。
 (お腹をなでる。『◯◯さんへ安産』との言葉と
 女性の象徴のイラストを描いた色紙=お守り)



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