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毎日往復22キロを歩いて通った元東大総長。映画「世界の果ての通学路」。

以前にもこのブログでご紹介したことが
あるのですが、世界には、こんな困難な
通学路を通って、学校似通っている児童が
いると衝撃を受けたドキュメンタリーがあります。

映画「世界の果ての通学路」公式サイト
http://www.sekai-tsugakuro.com/news/

世界の4人の子どもたちの通学事情を伝えます。

例えば、ケニアの11歳のジャクソン君は、
片道11キロの象、ライオンなどの野生動物が
いる道とも言えない通学路を2時間かけて通っています。

最初、見たのはテレビ番組でした。
ここまでして通う子ども達の存在、
向学心に大いに感激し、心動かされたのでした。

そして思い出したのは、小さい時に
自分が世話をしてもらった
おばあさんから聞いた話です。
(血縁関係はない)

彼女は愛媛県の山の中の出身。

自分の家から尋常小学校へは、
およそ三里(12キロ)。
近所の子達と一緒に通っていたそう。

片道12キロ。
信じられません。
当然のことながら、徒歩以外の手段はなし。

体が丈夫だったので、1日も休まず、
皆勤賞をもらったというから驚きです。

そのおばあさんが、自分以上にすごい
と話してくれたのは、愛媛の隣の
香川県出身の南原繁元東大総長の話です。

南原氏は、徳島県境に近い
香川県の山の中の村の出身。

家が貧しかったため、中学校へ通えるとは
思えなかった南原少年。

しかしその頃、以前の中学より、
近くに、新しい中学ができたのです。
高松中学大川分校(現在の三本松高校)です。

近くといっても家から片道11キロ。

母親キクさんはこれからは学問と、
強力に勧め、この学校に行く事になったのです。
明治三十五年のことでした。

相生村(引田町、現在の東かがわ市)から学校まで、
往復三里、往復六里近くの道を、なんと6時間
かかったそう。

お母さんのキクさんは、和裁を村の娘さんに
教えるかたわら仕立てをしており、夜なべ仕事も度々。

このため南原少年は、自分で御飯をたき、
握り飯の弁当を作らなければなりませんでした。

朝5時に起きて、御飯を炊き、弁当を作る。
その弁当を腰に巻き、教科書、ノートをふろしきに
包んで、肩から斜めにかける。

足もとは素足に草履履き。
雨の日は裸足。
貴重な靴は学校に着いてから、
履き替えていたんだとか。

学校が終わって、家にたどり着く頃には夜。

往復6時間も通学にかかるので、
勉強時間はなし。
なので、学科は授業時間だけで理解し、記憶。

日曜には1週間分、さらには夏休みには二学期分を
予習するクセがついたそうです。

汽車も電車もバスも通うのになかった時代。
自転車も高価な貴重品でした。

そうして南原少年は刻苦勉励し、東大にいり、
さらには欧米に留学もし、学者となり、
東大総長にもなった。

そんな話を、自分を小さい時に世話してくれた
おばあさんは、話して聞かせてくれたのでした。

月日のたつのは早い物。
とうに学に志す時代は過ぎ、
人生もたそがれを迎えようとしています。

「少年老い易く学成り難し。
一瞬の光陰軽んずべからず」

この格言が身にしみる早春です。

〇三本松高校では、「南原ウォーク」を実施
 これは卒業生の南原繁先生を顕彰し、
 南原先生が通学した路を歩きながら、
 その善行や功績などを知ったり、
 地元への理解を深めることが目的。
 上にも書いたように、距離はおよそ11km、
 3時間強の行程です。
 
〇南原繁さんは、政治学者であり、
 クリスチャンであり、歌人でも。
 故郷には、歌碑がいくつか。
 「幼くて われの越えにし大坂峠に  立ちて見さくる ふるさとの町」
 「城山の 山のかくめる 引田港 われ少年にして ここに船出しき」
 また
 「冬の暁五時には起きつつ弁当つくり 中学に通ひし少年の日よ」
 とも歌っている。
 
コトバンク、南原繁(なんばらしげる)
https://kotobank.jp/word/%E5%8D%97%E5%8E%9F%E7%B9%81-108922
(もともと、南原は「みなみはら」。後に「なんばら」に)
現代日本人の肖像 南原繁
https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/583.html





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